【アラベスク】メニューへ戻る 第18章【恋愛少女】目次へ 各章の簡単なあらすじへ 登場人物紹介の表示(別窓)

前のお話へ戻る 次のお話へ進む







【アラベスク】  第18章 恋愛少女



第1節 salon [5]




 前副会長である廿楽(つづら)華恩(かのん)が卒業した事で、権力が完全に移行したと生徒たちは認識している。現副会長は、緩をかなり遠ざけている。緩は、新学期に入ってから、まだ一度も副会長室へは入れてもらってはいない。噂では、別のクラスの女子生徒が声を掛けられたとか。一年の時には緩の傍に居た二人の生徒のうちの一人と一緒に副会長室へ入っていく姿を見かけたと聞く。
 私を、権力へ近づくための踏み台にしたのね。
 机上を睨む。
 この唐渓では珍しい事ではない。緩だって、華恩に近づくためなら何だってした。
「黙ってねぇで、どっか行けよ」
「目障りなんだよ」
 男子生徒の罵声。女子生徒たちの嘲笑。
 こんな境遇になんて、絶対に負けないわ。
 緩は、見た目は平然と教科書をしまい、文庫本を取り出す。明治時代の古典。誰が、どこから見ても文芸少女。だが、心の中では淡くて甘い世界が揺れる。
 周囲に気づかれぬようトロンと揺らす目の前で、純白のレースが揺れた。トクンッと、心臓が心地良く跳ねる。
 そうよ、己を貫けば、自分は絶対に報われるのよ。
 健気な自分に浸るように言い聞かせる。その耳に甦るのは、甘くて柔らかくて従順な声。

「お早いお帰りをお待ちしております。お嬢様」

 愛らしい瞳が緩を夢の世界へと誘ったのは春休み。路地の奥にあるメイドカフェで、緩は文字通りお嬢様になった。





 ずっと行きたいと思っていた。ヒラヒラとしたレースを揺らしながら淑やかに行き交う少女たちの世界に、触れてみたいと思っていた。唐渓のような現実染みた上流社会ではなく、本物の、隅々までが品格で整えられた優雅で甘美な理想の世界に。
 だが今までは、入り口に立つことすらできずにいた。
 メイドカフェなどに入る姿を誰かに目撃でもされたら、それこそ緩は、唐渓での笑い物だ。恰好のネタとして、とことん利用され、イビられるだろう。
 関東へ行く時には、母方の祖父母の家に泊まる。ほとんどがイベント目的で、しかもその事は祖父母には内緒にしている。あまりに長い時間外出をしていては、行く先を追及される可能性もある。なかなか会えない唯一の孫がせっかく来てくれたのに外出三昧では、祖父母としては寂しい限りだ。鬱陶しいとは思いながらも、泊まらせてもらっているのだからそんな彼らに文句は言えない。ここまで離れていれば知人に目撃される事は無いだろうとは思いながらも、イベントの余韻を胸にコミケやオフ会へ向かう人々を横目に見ながら、結局はまっすぐに祖父母の家へ戻らざるを得ないのだ。
 最低でも、唐渓を卒業するまでは無理ね。
 だが、心に秘めた欲求は、ふとしたきっかけで口から零れてしまうものだ。
「イベントとかで着たら似合いそう」
「イベント? ですか?」
 鏡を見ながらふと呟いてしまった緩の言葉に、裾を直していた幸田(こうだ)(あかね)が顔をあげた。
「アニメとかゲームのイベントです。あ、あと、メイドカフェとか。ラブ・アラベスクのカフェに行ったら、サマになりそう」
「メイドカフェ?」
「あ」
 慌てて右手で口を押さえた。
 三月の下旬。春休みに入ってすぐの日の事だった。
 以前より協力して欲しいと言われていた服の試着を依頼され、緩は霞流邸へ飛んで行った。
「素敵」
 想像以上の出来栄えに、まずそう一言呟いた。
「すごい。これ、幸田さん一人で作ったんですか?」
「少しお手伝いしていただいた部分もありますけれど、ほとんどは一人で頑張ったんですよ」
 はにかむように笑みを浮かべる。
「利益目的ではないので、あまり他の方の手を煩わせる事はできませんし」
「でもこれ、ネットに出したら絶対に売れると思いますよ」
「まさか。この程度の作品なら、他にいくらでもありますよ。もっと手の込んだ作品を作っていらっしゃる方はいくらでもおられますし。世の中には器用で繊細な方々がいっぱいいらっしゃいます。特に日本人は手先が器用ですし根気もありますから、探せばいくらでも傑作は出てきますよ」
 マネキンに着せられ、庭に面した日当たりの良い小部屋の中央でライトを浴びるかのように春の陽を受ける衣装は、アンティークな調度品の並んだ霞流の屋敷にはあり得ないほど馴染んでいる。中東色が満載の作品なのに、どうしてだろう。
 こんな服を着て、ゲームの世界を歩き回ってみたい。
 華麗で優美で劇的(ドラマチック)夢想的(ロマンチック)で。
 唐渓のように、一般的ではないけれども中途半端に現実的でもない、真の上流社会。
 あぁ、ほんの一瞬でもいいから、あの世界に入り込めたなら。
 醜い争いも蹴落としも無い、自分のような清純な人間が正しく評価されて認められる、穢れなき世界。理想の世界。
「少しでもいいから」
 幸田の手を借りながら衣装に袖を通す。その滑らかな肌触りに身を包まれると、欲求が風船のように膨らみだす。
 どこか、この現実社会のどこかに、こんな衣装が似合う場所ってないかしらね。
 ぼんやりと想いを巡らし、思い浮かんだ言葉を知らずに口にしていた。
「イベントとかメイドカフェとかに行ったら、サマになりそうですよねぇ」
「メイドカフェ? ですか?」
 慌てて手で押さえる。だが、言ってしまった言葉をいまさらなかった事にはできない。
 恥ずかしそうに視線を反らす緩の仕草に幸田はしばし首を傾げ、やがてゆっくりと口元を綻ばせた。
「行ってみますか?」
「え?」
「メイドカフェ」
 ごく当たり前のように提案する幸田に、緩はポカンと口を開けるのだった。



 緩もそれなりにネットでいろいろ調べてはいた。だから、メイドカフェにもいろいろある事ぐらいは知っていた。だが、このような本格的なカフェがあるとは知らなかった。
 メイドカフェとは、せいぜい店員がメイドの出で立ちで客を迎え、あれこれと世話を焼き、場合によっては写真撮影にも応じる。週末のみオープンする店などでは客が殺到するため時間制限が設けられたり、メイドの写真撮影お断りや、客の過度なコスプレを規制したりする店もある。特定のゲームやアニメを意識した店では、登場キャラの誕生日などに合わせてイベントを開催したり、店内での会話をゲームの世界に合わせたりするなど、様々な個性で演出したりする店もある。
 緩が期待していたのは、大好きなラブ・アラベスクというゲームの世界を表現したメイドカフェだ。主人公のサポート役としてゲーム内に登場する可愛らしい泉の妖精の衣装を着た店員が接客してくれる店で、去年の秋に三号店が名古屋にオープンした。ゲーム内の登場人物の衣装なら着てもよい事になっているから、その店なら、幸田に作ってもらった衣装を着ても、きっと違和はないだろう。
 女性客も多いが、露出度の高い泉の妖精の衣装を目当てにした男性客もけっこういるというネットの口コミ情報を得ていたので、それなりに覚悟もしていた。
 とにかく、唐渓の生徒や知り合いに目撃さえされなければいい。
 危険を伴いながらも欲求に勝てずにメイドカフェへ行く事を承諾してしまった緩は、まるで魔王に捕らえられた王子様を救出に行くかのような心持ち。これは王子救出の為の試練なのだと言い聞かせれば、この覚悟は崇拝すべき感情なのだと誇りにすら思えてくる。
 だから、電車で移動すると聞かされた時も、常に周囲に注意を配りながら、どことなくその緊張感を楽しんでもいた。







あなたが現在お読みになっているのは、第18章【恋愛少女】第1節【salon】です。
前のお話へ戻る 次のお話へ進む

【アラベスク】メニューへ戻る 第18章【恋愛少女】目次へ 各章の簡単なあらすじへ 登場人物紹介の表示(別窓)